まちライブラリーの本

「まちライブラリー」の研究 「個」が主役になれる社会的資本づくり 礒井純充著(みすず書房)

まちライブラリー提唱者の礒井純充が、『「まちライブラリー」の研究 「個」が主役になれる社会的資本づくり』 を、2024年2月1日に、みすず書房から出版いたしました。

 
大井実さん(西日本新聞)、永江朗さん(日本経済新聞)、牟田都子さん(週刊東洋経済)、川原紗英子さん(図書新聞)、柴野京子さん(図書館界)、嶋田学さん(日本図書館情報学会誌)に書評を寄稿いただきました(掲載順)。

礒井純充の長年にわたるまちライブラリー活動を一冊の著書にまとめたこともきっかけとなり、図書館の価値、意義を広く訴えた個人に対して贈られる「第24回図書館サポートフォーラム賞」を受賞しました。

2024年2月には、出版記念の集いを「蓼科親湯温泉 みすずLounge  & Bar」にて開催しました。本ページ下部に詳録を掲載しております。上記リンクにてPDFでダウンロードいただくことも可能です。本と一緒に、当日の様子をぜひご一読ください。

みすず書房公式サイトはこちらから。

著書プロフィールはこちらから。

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書評紹介

2024.4.13  大井実さん 西日本新聞

「個人が無力感を感じがちな時代であるがゆえに、自発的な「個」の活動が生かされやすい社会をつくっていく必要があるが、その実現のためのヒントが数多く示されている」

2024.4.20 永江朗さん 日本経済新聞

個人から社会の共通資本へ

2024.4.20 牟田都子さん 週刊東洋経済

全国1000か所超の私設図書館 個人が本1冊から始める社会改革

2024.5.25 川原紗英子さん 図書新聞

「本の活動と個が生きやすくなる社会の関係とは?――「本を通して人と出会う」まちライブラリーと、組織や社会での自分ではなく「個」に焦点を当てるもう一つの椅子の活動とが重なり合う」

2024.9 柴野京子さん 図書館界2024年76巻3号

「紆余曲折を経て著者自身が獲得した問題意識と活動原理が、今日的な視点と信念に貫かれている点が魅力の一冊である」

2024.12.31 嶋田学さん 日本図書館情報学会誌

「社会の発展や持続には、組織力も計画性も不可欠であることを熟知している著者は、それでも人間が生きる意味や「共感」で紡がれる社会への理想を主張する」

 

図書館サポートフォーラム賞受賞

まちライブラリー提唱者の礒井純充が、第24回図書館サポートフォーラム賞を受賞いたしました。

図書館サポートフォーラム賞は、図書館の価値、意義を社会に広く訴えるなどの活動をした個人に対して贈られる賞です。

 

▪️表彰理由

礒井純充氏は、2008年大阪天満橋駅近くのビルの一室で自身の蔵書1,500冊で「まちライブラリー」を開始し、「まち」で働き、生活する人々が、「まち」を自分の目線で活き活きとさせるための塾「まち塾」と「まちライブラリー」(学びあいの場)を提唱実践する過程で、ひたすらミクロにこだわって、日本におけるパブリックなライブラリーの実態とイメージに大きな刺激を与えるとともに、その戦後日本の民主的図書館像への果敢な揺さぶりは、著書『「まちライブラリー」の研究―「個」が主役になれる社会的資本づくり』(みすず書房、2024)にまとめ、その功績は、まさに図書館サポートフォーラム賞にふさわしく、高く評価して表彰するものである。

▪️礒井純充ごあいさつ

 ⼩さな私塾として初めた⽂化活動が企業で⼤きく育ったが、⼈事異動で離れることになりました。ライフワークは組織のなかではできず、⾃分のなかで⾃分の活動は育てていかなければいけないことに気付かされ、いろんな模索をして 2008 年に⽣まれ故郷の⼩さなビルの⼀⾓で「まち塾@まちライブラリー」をたちあげました。本当の仲間と⾃分が受け⼊れられる場所を作りたいとはじめました。10 数年経ってみたら、⾃分と同じ気持ちのある⽅が⾃分の活動として広げていってくださって 1100 を超えるまちライブラリーになっています。

 私が始めた活動ではありますが、いろいろな思いのある⽅たちが、活動を広げてくださったし、広げたというよりは⾃分の活動としてやっておられる。それは決して⼤きな⽬標ではなく、ちょっとだけ⼩さな夢を実現させようとして歩いていらっしゃる、その道具として「まちライブラリー」があったのではないかと思います。そこには「本」が持つすごい⼒があった感じがします。今回の受賞を糧にして、ひとりでも元気になってもらえるように頑張っていきたいと思います。ありがとうございました

図書館サポートフォーラム賞のウェブサイトはこちらから。

まちライブラリーのリリースはこちらからダウンロードしていただけます。

 

出版記念イベントの紹介

『「まちライブラリー」の研究 「個」が主役になれる社会的資本づくり』 の出版を記念して、日本各地の書店や図書館、カフェ、まちライブラリーで出版記念イベントが開催されました。

出版記念イベントから、いくつかの講演レポートを掲載いたします。

 

2024.2.25

「まちライブラリー」の研究 「個」が主役になれる社会的資本づくり

出版記念の集い 蓼科親湯温泉 みすず Lounge & Bar 

 

『「まちライブラリー」の研究 「個」が主役になれる社会的資本づくり』の出版社であるみすず書房とゆかりの深い蓼科親湯温泉のみすず Lounge & Bar にて、2024年2月25日に出版記念の集いが開催されました。

▪️蓼科親湯温泉 みすず Lounge & Bar  礒井純充講演

礒井純充ごあいさつ

 今⽇は雪の中、北は北海道の⽅、⻄は下関の⽅、それから⼤阪からは⾼校⽣も来ていただいて、私にとっても嬉しい⽇です。

 今⽇のこの⽇を誰かが第⼆の結婚式か⽣前葬かって⾔ってましたけど、私にとってハッピーな時間となりそうです。まさか、みすず書房さんから⾃分の本が出せるなんて、今まで考えたこともなかったんです。数年前に企画書を出させていただいてから、それを⾟抱強く育てていただいた編集者の⽅がいらっしゃって、何とか上梓することができました。

 こんな⼭のなかへ来ていただいた理由の⼀つが、ここ蓼科親湯温泉は 2018 年から「みすず Lounge &Bar」と呼ばれている本の場があるからです。今⽇は残念ながら親湯温泉の社⻑さんは所⽤でお越しいただけないんですが、 ここにあるほとんどがその⽅の蔵書で、今 3 万 5000 冊ぐらいで、約 2 万冊が社⻑の柳沢さんの蔵書と聞いています。 なぜみすずラウンジかというと、ここ⻑野県茅野市は、みすず書房創業者の⼩尾俊⼈さんのご出⾝地なんです。またこの⼭を越えた諏訪市は岩波書店創業者、岩波茂雄さんの出⾝地で⽇本を代表する⼈⽂科学系の本の出版社がこの地域から出てきたっていうことは感慨深いです。今⽇みたいな会がこの地でできるのは本当にありがたいことです。

 蓼科親湯温泉には、この本を書く5 年ほど前に来ました。ちょうど冬の時期で、この本気の本棚をみて、社⻑の思いが伝わってきました。私がいつかみすず書房で本を出せることがあればこの⼀⾓に私の本も置いてもらえますかって社⻑に聞いたら、いいですよって⾔ってくださったので、それを励みに⼀⽣懸命書きました。

50 年後、100 年後に届ける⼿紙のつもりで書いた博⼠論⽂

 それでは、本の話に⼊っていきたいと思います。『「まちライブラリー」の研究』 。副題は、『 「個」が主役になれる社会的資本づくり』となっています。

 2016 年に⼤阪府⽴⼤学の⼤学院経済学研究科の博⼠後期課程に⼊学して 4 年かかって博⼠論⽂をまとめ 2020 年 3 ⽉に受理されました。この 4 年間は私にとっては、⼈⽣で⼀番⼤変な課題を与えられた気がしました。いろんな仕事をしましたが、全然やり⽅が違う。⼤学の研究や論⽂の世界観と、実業の世界観は違ううえに、修⼠課程を経ないで特別に別の論⽂や実績報告をして博⼠課程に⼊れていただいたので、勝⼿もわからず居⼼地が悪く⼾惑いの連続で、挫折⼨前でした。そんな折に「いい機会じゃないですか、博⼠論⽂っていうのは 50 年後、100 年後に届けられる⼿紙みたいなものです。あなたが⽣きてる時代に誰かに読んで評価してもらおうと思うから⼤変なんであって 50 年後、100 年後に届けるようなつもりで書いてください」と⾔ってくださる⼈がいました。それが腑に落ちて、そうかと⼀⽣に 1 回しかないチャンスかもしれないから、博⼠論⽂を出そうと思ったんです。この間、 伴⾛して資料をまとめてくれたスタッフにも助けられました。 結果、受理をされたのですが、博⼠論⽂は⾔いたいことの全てを書くわけにはいかない。むしろどちらかというと論旨をはっきりさせて、査読に耐えうるように削っていく作業になる。データで裏打ちのない私⾃⾝の意⾒や推測を削ってまとめたのがこの博⼠論⽂です。

⾃分の視点をもちかえる、現在につながるフィロソフィーとの出会い

 ちょっと⼤げさかもしれませんが、この本の出版でようやく私の遺⾔書を作ったと思います。⾃分が⼈⽣の中で直接会って伝えることができる⼈って限りがあると思うんですが、これを何⼗年か後に読んで2024 年にこういうやつが⽣きていたんだなと考えてくれる⼈がいてくださることを切に希望しながら本を作ったつもりです。

 特に副題にある、「個」が主役になれるというのが、私の⾔いたいことの全てなんです。私⾃⾝も 42 年と 1 ヶ⽉間サラリーマンをやってきました。決して順⾵満帆ではなかったけど会社の仕事も頑張ってきたつもりだけど、こういう⽣き⽅でよかったんだろうかともんもんとしていた時代もあったんです。しかし⾃分なりの視点でもう⼀度やってきたことを整理すると、全て⾃分の今⽇に繋がっているということがわかってきました。 それが理解できた⾃分にとって、次の若い世代の⼈に、⽬の前の組織とか地域とか、そこの枠組みに負けないようにしてくださいね、 ⾃分の視点をかえればいいんですよ、ということをこの本で伝えたいと思うし、⾃分⾃⾝も再度確認したいと思ってこの本を書きました。

 この中に出てくる友廣裕⼀くんが私にそれを教えてくれ、彼が紹介してくれた早稲⽥⼤学の友成真⼀先⽣が、「問題はタコツボでなく、タコだった!?」という本で、我々が蛸壺っていう器ばかり気にすると。会社や組織という器ではなくて、中にいる⼈のほうが⼤事なんですよという考え⽅を、2010 年ぐらいに私に教えてくださった。このおふたりの⼒によって、まちライブラリーのフィロソフィーができてくる重要なポイントだったと。私はご承知のように森ビルという会社にいました。世間的には東京のトップランナーに⾏こうというイメージですが、本当はそんな会社ではなかったと思うし、いつの間にかブランドになっていって、中にいる⼈もだんだんそんな気になっていきました。そういう世界観をずっと横で⾒ながら、⾃分も感化されていたところがあって、⽬線が上から下を⾒てるような感覚をもっていたんだなということを先ほどの 2 ⼈に教えてもらった。あなた⾃⾝がどういう⽣き⽅をするのか、どういう価値観をもつのかということをやるべきだっていうことを、このときに教えていただいたので、10 数年この活動が続けられているんだと思います。

本の内容紹介 はじめに

 この本は 8 章⽴てになっていまして、「はじめに」を読んでいただくと概ね、何を⾔いたかったのかご理解いただけると思います。要は今みたいな話なんですが、いろんな傍証を出しながら、まちライブラリーという活動で得た知⾒を徐々に読み解けてきたことを、まとめてあります。

第1章 まちライブラリーが⽣まれた背景と基本概念

 1 章です。 今、我々を覆う息苦しさがどこから⽣まれたか、 特に⽇本がバブルがはじけて右肩下がりになってからですね。 いろんな経営⼿法が出てきて、 KPI とか、 エビデンスがないと駄⽬だとか、 仕事の効率性を評価軸にしますってことを⾔う⼈が出てきて、⼀つの価値観に統⼀されてしまった。

 何か錯覚が起こっちゃったんじゃないか。世の中の価値観は変わってるし、グローバル化っていう⾔葉の中に埋もれてしまっている。我々の⽣活全てをどこでも誰でも同じようにするために、我々の産業や商品やサービスがあると⾔われたら、じゃあ俺いなくてもいいのねって話になってしまう。私も六本⽊ヒルズで⼤きな⽂化事業をやりましたけど、その事業も最初は⼩さな私塾で、10 ⼈か 20 ⼈ぐらいの⼈をゼミにお招きするような形のときは、⼈間関係も良かったのに、だんだんそれを⽴派な場所でやろうと思えば思うほど収益性を上げなきゃとか、成績を上げなきゃということだけに汲々として、昔から付き合ってた⼈との⼈間関係を捨てていく。そして効率さえ良ければいいという⼈たちを招き⼊れてしまった。 結局、 最後は⾃分もそこからぽんっと捨てられてしまった。そのときに友廣さんとか友成さんに出会って、いや蛸壺じゃないんですって、⼈⽣はこっち側なんですって⾔われたときに、ちょっと腑におちた、そういう感覚が1章に書かれてます。

 奇しくも今年の 6 ⽉に六本⽊アカデミーヒルズがなくなることを聞いたある⼈が⼿紙をくれて、このまちライブラリーにある程度遺伝⼦外情報が残されたんだから良しとしようよ、と⾔ってくださったんですが、まさに僕もそう思います。僕はまちライブラリーの形をずっと残したいと思っているわけじゃなくて、考え⽅を別の形でも掴んでいただければいいかなと思っています。

第2章 まちライブラリーの実践活動から得た知⾒

 2 章からは、まちライブラリーの軌跡です。紆余曲折の軌跡を書いているのは 1000 か所できたまちライブラリーを作ることがゴールだと勘違いして活動する⼈たちが出てきちゃうのが⼼配だったからです。私は 1000 か所作るとか、数を増やそうとかじゃなくて、⾃分の居場所作りをずっとしたかった。私はとにかく六本⽊ヒルズからできるだけ遠いところで仕事をしたかった、そういう下世話な理由で活動が始まった。

 最初に Twitter で「奥多摩とかでやれたらいいね」とツイートしたら、そのツイートを受けて、奥多摩に縁ができたりとか、そのうち⼤阪の⼤学でやってほしいという⼈が現れました。⼤阪府⽴⼤学ですけど、そしたら⼤阪に⽉ 1 回ぐらい⾏けそうだなっていう逃げからスタートしているんです。そのうちにだんだんそっちが楽しくなってきて、その出会いの⽅が⾯⽩くなってきた。もちろんここに書いてあるように紆余曲折しています。紆余曲折からの⾃慢話をしたいわけじゃなくて、世の中はそういうもんだということを⾃分の中でも再認識したいし、偶然、友廣くんに出会った。その出会いを⾃分なりに諦めず、教えてもらった最初の種を育てていったら、こうなりましたということが書かれています。

第3章 まちライブラリーの広がりと多様性

 3 章はまちライブラリーの広がりについてです。今⽇で 1112 ヶ所登録され、15%ぐらいの⼈がやめています。 やめてもいいんです。 継続することにまちライブラリーの意味があるとは思ってなくて、何か気がついて始めて、⼀回休んでまた再開する⼈もいます。

 本だってそうですよね。 最初から読み始めて1章読んでちょっと⾏き詰まっちゃって、 でもまあ置いとこうと。 ⼈⽣も同じなんで、 1 回始めてずっとやることだけが⽬的になっちゃうと疲れますんで、 やめることはいいと思います。

 今 1100 ヶ所中海外では、ロンドン、シアトル 2 ヶ所、台湾にあります。これは⽇本⼈の⽅が⽇本で出会って、 赴任してやっているか、 あるいはシアトルのように、 赴任者がどんどん本を置いていくことで始まりました。 アメリカで本を買うってすごく⾼い。それを持って帰ろうとするとこれがまた⾼い。そうするとむしろ置いていって次に赴任してくる⼈に読んでもらった⽅がいいと、おそらく 2 万冊くらいの本棚がシアトルに 2 ヶ所できています。それもまちライブラリーに登録してくれて、私もいつか⾏ってみたいところです。

 47 都道府県ありますが、46 都道府県に広がってます。1 ヶ所、愛媛県だけないんです。愛媛県でもしご縁がある⼈があったらぜひやってほしいです。 (※2024 年3⽉に愛媛県でも登録されました)

 約 10%が公共の場所で、90%は⺠間の場所です。運営者は、個⼈が約 6 割、⼩さな団体が 2 割で⾏政や企業が 2 割ぐらい。 ちょうど 6:2:2 です。 過半は個⼈の⽅がやっておられて、ものすごく多様なとこで広がってますよということが 3 章に書かれています。それぞれが設置したいところに設置していくということです。ちなみにここもまちライブラリーの登録をしていただいています。

第4章 まちライブラリーの運営者と利⽤者の実態

 4 章は、 運営者とか利⽤者はどういう⼈なのかということが書かれている。 アンケートをしたり、 ヒアリングしたり。 ここでのポイントは、 うまくいく⼈とうまくいかない⼈の事例なんです。 まちライブラリーって、確かにいいことをやってるように⾒えるんだけど、別にいいことやろうと思って始めたわけじゃなくて、六本⽊ヒルズからできるだけ遠いところに⾏きたいという斥⼒によって始められた活動なんです。 要するに逃げから始まって、みんなが⾯⽩いとか、 いいって⾔ってくれるから、 これいいんじゃないかなと⾃分で逆に勘違いをして、どんどん後付けで意味づけていってそれがさらに良くなったということなんです。 実はうまくいかない⼈の⼤きな理由は、 最初から⽬標を持ってる⼈なんですね。 商店街に置いた以上は、 ここが商店街の中⼼にならなきゃとか、あるいはお店の売り上げを上げたいとか、こういう⼈たちはうまくいかないとすごくストレスを感じている。逆にうまくいく⼈って、最初からコミュニティの場所を作ろうなんて思ってませんっていう⼈。その⼈は児童書だけ集めたかったんですね。⼦供の声がすきだから。 児童書だけを集めてたら、 近所の⼦が集まってきて、 周りからみたらコミュニティの場所になっている。 本にも出てきますけど、 雫⽯の司書の⽅なんですけど、 オカルトの本だけ集めてるんです。 別に⾒に来てもらわなくても、 今 4000 冊を超えていて国会図書館にもないもので私が⼀番だと思っていますと⾔っています。図書館司書だから普段は図書館運営に汲々としていて、まちライブラリーって運営が楽だわーって、本も登録もせんでいいし、持ってきたのをそのまま置けばいいやって⾔ってやってるんです。

 外から⾒るとウェルビーイングのようにみえるんですが、内実は極めてセルフィッシュな⾃⼰愛的な活動で始めている⼈が、結果としてそれが⼈に役⽴つことがあるんですね。この辺はまちライブラリーもいくつか運営を委託されているところがあるので、スタッフとも話をしていても真⾯⽬な⼈が多いからきちんとサービスしなきゃいけないと思う⼈が多いけど逆なんです。サービスすればするほど、相⼿側から出てくる⾃⼰愛的な⾏動を消してしまう可能性がある。むしろ寄り添っていればいい。相⼿が何か⾔ったらうなずいていれば半年くらいたつと、みんなが寄り添ってくれた⼈を頼りにする不思議な活動だと気づいてくる。

第5章 地域と⼈とまちライブラリー

 5 章は、 まちライブラリーの広がりについてです。 私は⼤阪出⾝で⼤阪市中央区で始めたんですが、 研究当初に指摘されたのは礒井さんがやってるから広がってるんじゃないの?義理でやっているんじゃないのということでした。 確かに最初はそうだった⼈もいると思う。 でもそれはほんの1、 2年なんです。別の⼈が他のまちライブラリーを⾒て、さらに他のまちライブラリーにつながる2次感染して 3 次感染して、そこから 4 次感染していくってことがよくわかる。そういう⾃然な広がりを持っていることが⼤阪市中央区とか、埼⽟県鶴ヶ島市とか、あるいは北海道千歳市なんかで検証された。

 千歳市のストーリーはすごく⾯⽩いんです。元々、北海道空港会社の⼦会社さんが絶対やめませんということで始めたんだけど、コロナ禍の影響で閉めざるを得なくなったんです。そしたら、2200 ⼈もの市⺠が署名を集めて再開をしようということになって、それを受けた市役所が議会を開いて、臨時の予算をつけてくださった。その予算をつける議会に、⾼校⽣が 40 ⼈近く集まってきて、俺たちのまちライブラリーがどうなるかを⾒届けたいという。これもまたすごいドラマが千歳に起こったんですね。またここ茅野市も含めた⾯⽩い事例がたくさん書いてあります。

第6章 まちライブラリーを活⽤した場づくりとは

 6 章は⼀番⾯⽩い章だと⾔ってくれる⼈もいます。 そもそも 「場」 ってなんなんだっていうことに関して、かなり⾃分なりに考えました。

 清⽔博さんという、 東⼤の名誉教授で⾃然科学の先⽣が⾃⼰の卵モデルと⾔って、 ボールにたくさん卵を割りいれると、 ⻩⾝と⽩⾝にわかれる。 ⻩⾝はひっつかないけど、 ⽩⾝はくっついて⼀緒になって、これが場なんだ、 社会なんだって。 要するに、 我々個⼈で局在して⾒えるけど、 実は今ここにある空気感がある種の親友の空気感になっている。これがあるから私たちは居⼼地よく存在しているわけです。

 居場所論も⾯⽩いなと思って。 英語にできない⽇本語と⾔われていて、 居場所には意味があると。 ⼦供が学校に⾏かなくなって不登校の⼦の居場所論が出てきたり、お⽗さんが家で居場所がないから、ベランダでタバコを吸うというような居場所論になって、別の誰かを受け⼊れるっていう、そういう意味合いを持つのが居場所論だってことがわかってきました。みすず書房の『サードプレイス』 (レイ・オルデンバーグ著)。この本はもう何年も前に買って読みました。タイトルの「サードプレイス」という⾔葉がいいです。よすぎちゃってスタバでもファミレスでもみんな 「サードプレイス」を使う。 家が「ファーストプレイス」で、 「セカンドプレス」が学校とか職場ということでわかりやすいからみんな使うんです。でも多分、 多くの⼈はこの本を読んでないんですよ。 著者の社会学者レイ・ オルデンバーグはこの著書の中で「インフォーマルな公共⽣活」って 72 回も書いている。特にアメリカのまちづくりを間違ってると書いている。 アメリカ⼈は⾞で家と会社を往復してばかりで、 ヨーロッパにあるような、 例えばパリにあるようなカフェもなければ、 ロンドンにあるようなパブもない。 要するにみんなが普段集まってきて、 ふらっと⽴ち寄ってそこで会話をする場がなくなった。そしてその場での会話のルールは、常連さんの雰囲気とマスターの雰囲気で決まる。これをサードプレイスというんだっていうことを⾔っている。原題は「The Great Good Place」ですが、⽇本の編集者が極めて優れたキーワードをタイトルに使われて、これが独り歩きしたことがわかりました。このサードプレイス論を否定するわけじゃないんですけど、⾃然に⼿繰り寄せられるようにできている場所は⼤事なんだなっていうことを改めて気づいて、まちライブラリーを振り返ったときに、⼿を出していろいろ意図的な⾏為がなく、むしろ緩やかな⼈間関係によってつながっているんだと気づいたんです。だから今⽇、公共図書館の⼈も来られていると思うけど、何々を禁⽌するばかりではサードプレイスにならない。礒井さんの家に⾏ったらこういう空気感だねとか、 友達にしたらこんな空気感だねということがあって、 その中で我々がお互いの空気感を⾒て、ここではこう振る舞おうと決めていくのが本来のサードプレイスの意味だったのではないかなと私は思う。

 このサードプレイスの著者、 オルデンバーグがすごく褒めてる⼈がいて、 それはジェイン・ ジェイコブズです。 『アメリカ⼤都市の死と⽣』って、これまた厚い本で、都市計画家に対する攻撃の本なんです。ニューヨーク⽣まれのフリーランスの⽣活情報を書いていた⼥性ジャーナリストで、この⼈が、アメリカの 60 年代にマンハッタン島の混雑を緩和するために⾼速道路計画ができて、 これに対して猛然と反対するんです。都市計画家が作った児童公園では⼦供は遊んでないし、⻘少年施設で作ったバスケットコートは誰も⾏かない。⼤きな⽂化センターを作ってもそこの本屋はまともに育たなくて廃業になる。都市計画家は駄⽬だっていうことをかなり⾟辣に書いてる。当時はもちろんですけど未だにこのジェイコブズ論に対しては、都市計画家は反発する⼈と、ものすごい親愛の情で⾒てる⼈と、⼆分化してるんです。 要は、 彼⼥は何を⾔いたかったかというと、 まちのことは誰でも考えられるし、よく観察してればいいんじゃないかと、意図的な都市計画家や⾏政の計画がかえってまちを悪くしていると⾔っている。昔のニューヨークって、 階段があってセサミストリートみたいに、おじいちゃんが座っていて、 ⼦供が潰れた消⽕器で⽔遊びしてたり、そういう⾒守りの姿勢があったんじゃないかと。 それを道路を広くして、 児童公園のために家を⽴ち退かして⾼層化し、ここはオフィス街、ここは住宅街と分けるから⼈がいなくてしまったんじゃないのかということを 1000 ページを超えるような分量で書いている。 さっきのサードプレイスを書いたオルデンバーグと同じで、⾃然観察をしながら緩やかにつながったらいいんじゃないっていうことです。

 これに対して、⽇本の経済学者宇沢弘⽂の 『社会的共通資本』 っていう本ですけど、この⼈、 天才って⾔われた経済学者で、東⼤にいた頃は⽇本で最初にノーベル経済学賞を取るんじゃないかっていう逸材だったと聞いています。 すぐアメリカに⾏って、経済学で愕然としたのが、 マクナマラってベトナム戦争のときの国防⼤⾂がいて、元々軍⼈ではなくてハーバードビジネススクールで MBA を取ってる経営者で経済学の素養がある⼈なんですね。この⼈が議会で証⾔するんですけど、議会から何年も戦費をつかって戦争してて、 こんな効率悪い戦争やめろっていわれたら、 いや俺たちは効率的に戦争してると。 1 キロ四⽅にこれだけのナパーム弾を投下しベトコンをこれだけ殺す、この効⽤⽐率は素晴らしいという証⾔したんです。 これを聞いた宇沢さんは、なんと俺はひどいことを経済学で教えてきたんだ。 こういう⼈間を⾒ない経済家を育ててしまったのかと、 いわゆる筆を折るじゃないけど、経済学を、 近代経済学を折りたたんでしまった⼈だと思う。 宇沢のいう 「社会的共通資本」 というのは、 ⾃然資本もあれば、 電気、ガス、 ⽔道というインフラ資本があり、 最後に制度資本があって、 図書館もそのひとつであって、 医療や司法制度などいろんな⼈が信託を受けてこれを運営してますよねっていうことを⾔っている。そして宇沢さんもジェイコブズを⾼く評価している。私が 20 代の前半ぐらいに読んだこの『アメリカの⼤都市の死と⽣』という本が、原点だったんだということに気付かされた。

 この 『サードプレイス』 とアンニョリさんっていうイタリアの図書館コンサルの⼈が書かれた『知の広場』 、そして拙著の三つの本が、場を考える、図書館を考える上で⾮常に⼤事な本で、しかも全部みすず書房から出されてるってことが私は嬉しくて、この 3 冊が揃って初めてこれからの図書館のこととか、場づくりのことが少し紐解けるんじゃないですかと誰かが薦めてくれる、そういう⽇が来ることを願っています。

第7章 計画性や制度から⾃由で、⾃⽣的に⽣まれるまちライブラリー

 7 章は、 ジェイコブズや宇沢やアンニョリの本から⼊っていくんですけど、 いま、 公共図書館がすごく変わり⽬に来てますよっていうことは申し上げたい。そもそも公共図書館という⾔葉は、⽇本の法律⽤語にはないんです。図書館法では⾃治体がやるのは「公⽴図書館」、それから⼀般社団法⼈、⼀般財団法⼈とか⾚⼗字社のやるのが「私⽴図書館」と定義し、 それ以外に図書館的な活動は誰がやってもよいと書かれています。 この「公⽴」という概念と 「公共」 という概念がいつの間にか⽇本では⼀体化しちゃったっていうところに難しさがあると思う。 新聞社で、東京都⽴新聞社とか、国家国⽴新聞はないですよね。新聞とかテレビとか鉄道も、 私⽴が認められるんだけど、図書館は公⽴しかないように⾔われる。この議論を公共図書館の⼈に⾔うと、お前は公共図書館なくしていいのかって⾔われ、いやそうじゃないんだと、公共図書館は公共図書館としてあってほしいんですけど、でも私⽴図書館と対等にあってほしいと。官報があっても、朝⽇新聞、読売新聞があるのが当たり前なのと同じように、我々の社会の中で個⼈や団体が作っていく私⽴図書館が対等にあっていいんじゃないか、私設のここのラウンジだって図書館って呼んでいいんじゃないですかっていうことを⾔いたいがために書いている。

 明治の出だしにできた成⽥⼭新勝寺の図書館は、 当初から開架式を採⽤していて、すごく⾃由度が⾼かった。 昔の図書館は本棚のところに⼀般の⼈は⾏けなかったのね。書誌データを箱から引っ張ってきて、すいませんこの本を貸してくださいって。すごく貴重な本のときには必要ですけど、そうじゃない⽅法論もありますよということを成⽥⼭新勝寺の図書館はやった。私⽴図書館には、⼦供⽂庫とか地域⽂庫もありますし、みな対等で補完的に⽂化活動があった⽅がいい。そうするとリサーチしたいときは公共図書館に⾏こうとか、⼦供の絵本を探すならまちライブラリーとか、コミュニティの場所として鍋パーティーできる私設図書館があったっていいじゃないかっていう選択ができるんじゃないかなということを考えました。

 では、 ⼩さな図書館ばかり作って、 世の中うまくいくのかっていうことで、 これで勇気を与えてくれたのは、ミルグラムというアメリカの社会学者です。この⼈は 300 ⼈ほどのアメリカ⼈を無作為に抽出して、その⼈が親しい友⼈に⼿紙を送って、あるボストンの⼈に何⼈で⼿紙が届くかって社会実験を 1960年代後半にしたんです。結果は中央値が 5 だったんです。つまりボストンから遠く離れた中⻄部のアメリカの⼈を無作為で選んで、 普通の郵便で何⼈⽬に届くのかと思ってたら、 6 ⼈⽬ぐらいに届くことがわかったわけです。1990 年代に⼊り、ダンカン・ワッツが⼤学院の博⼠課程のときに、これを数学モデルで解いた。 それがネイチャーにでて、 なるほど世の中、 実は⼩さな集まりでも⼤きく広がるんだということに気づかされて、これが 2019 年から始まったコロナのパンデミックで明らかに実証された。 要するにほんの数⼈、市場で流⾏ったものが、全世界 80 億の⼈を脅威にさらしてしまった。我々は、⾃分の⾝近な⼈にしか会わないように思ってるんだけど、⼩さな活動がずっと広がっていく可能性がありますよっていうことを、このダンカン ・ワッツが数学的に読み解いてくれたということで、 私の活動に勇気を与えてくれたなって思います。

 最後にアダム・スミスです。 私もついこの間まで教科書にある「神の⾒えざる⼿」しか知らなかった⼈です。でも調べてみると、 神の⾒えざる⼿っていうのは有名な 「国富論」 で 1 回しか使ってないことがわかって、先ほどのレイ・オルデンバーグが「インフォーマルな公共⽣活」を 72 回使ったことと明らかに真逆なんです。元々、スミスは道徳哲学の⼈で、1723 年にうまれ 1790 年に 67 歳の⼈⽣を終えるんですけど、18 世紀の英国⼈です。当時の社会環境から考えると、イギリス帝国がどんどん世界に広がっていった頃ですから、インドのものをヨーロッパで売れば、イギリス帝国が⼤きくなる、 いわゆる重商主義的な考え⽅が主流だったころですが、それでは国は富まない。普通に⽣きている⼈たちが豊かにならない限り絶対に国は富まない。今⽇の GDP 的な考え⽅が⽣まれたわけですね。それを国富論の中に書いた。その中の⼀番有名なことばを冒頭に紹介しましたが、本では、 今晩のご飯の⾁だとかワインとかパンは、⾁屋や酒屋やパン屋の好意で作ってくれているわけじゃない。私達が彼らの利得を考えない限り、彼らは作って届けてくれないということを⾔ってるので、⼈間のセルフィッシュな感情っていうモチベーションが、社会を豊かにするドライブフォースになりますよっていうことを⾔ったと思う。ただしこれ現在だと⾏き過ぎのところもあるけど、 彼⾃⾝、 もう⼀つ⼈の「共感」 というキーワードを⼊れて 「道徳感情論」 って本を書いています。 ⼈間はどんな悪⼈だって、 他⼈に何か関⼼をもって、 ⼦どもが溺れそうになったら助けようとすると。こういう気持ちを持ってるのが⼈間で、そういう両者の微妙な関係性が、我々社会を秩序⽴てていると⾔っています。

 私がなんでアダム・ スミスの話を最後に持っていったかというと、私はなにもウェルビーイングをやろうと思ったわけじゃないし、そうやろうとしてる⼈がむしろ⾏き詰まる。 他⼈のためにとか、 社会のためにと思う社会活動よりも実は、⾝近な⾃⼰愛的な、⾃分が受け⼊れられるかどうかっていう活動をしているうちに他⼈が受け⼊れて、 ⾃⼰効⼒感となり、 それがドライブフォースになってまた広がっていく。まちライブラリーの広がりってそこに隠された原点があったことを知ってもらいたかったからです。社会活動をやっていく⼈も、 環境を良くしようとか、 世の中こうしましょうとか、 世の中を主語に持っていけばいくほど他の⼈には他⼈事の話になる。あなた⾃⾝がこうしたらいいんじゃない、それが⾯⽩いでしょ、楽しいでしょうっていうことを⾔えば⾔うほど、実は資本主義が⼆百数⼗年間でとてつもなく拡⼤したように、社会活動も拡⼤していくんじゃないかなと考えたんです。

 まずは個⼈を主語にして、「森ビルの礒井」 っていう⾔い⽅やめませんか?ということを⾔いたいです。かつて仕事で「森ビルの礒井です」とあいさつすると相⼿は名前を呼ばないで「森ビルさん、 森ビルさん」と呼ぶ。 我々はまず私があって、それからそこで仕事しているだけなのに「組織」が⾃他ともに主になってしまう。 組織が⾃分の⼈⽣ではないし、⾃分の価値観でもない。セルフィッシュに⽣きているように⾒えて、⾃分が確⽴していくから社会のなかに⾃分の役割を⾒出して、 モチベーションを⾒出して、 結果論として、社会のインフラを作っていったり社会の活動になったり、 いろんな活動に広がっていく。どうも主語を反対側に持っていって、これからの図書館界は、 これからの教育界は、、、ここに持っていけばいくほど、他者をアウエーにしている。つまり逆⾵をふかしてるだけですよ、 むしろあなた⾃⾝を主体に持っていったら強い協⼒者が現れますよってことを⾔いたかった。

第8章 「個」が主役になるまちライブラリー

 8章は読んでのお楽しみです。 そういう考えもあるという個⼈的な感覚なので、 皆さんなりに読んでいただきたいと思う。 最後に私が皆さんに伝えたかったのは、 私が主語になって、 何かやることを作ってくださればいいなと思ってこの本を書きました。

本⽇は本当にどうもありがとうございました。

 

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